母語と外国語、そしてカクテルパーティー効果
2025/6/7
2021年に新型コロナに罹患し、その後、1年以上後遺症に悩まされた。
その中の一つが、「騒々しい環境で、周囲の会話が聞こえると頭が痛くなる」というものだった。
たとえば、電車の中などで不特定多数の人々の話し声が耳に入ってくるとき。あるいは、自宅でテレビドラマのセリフと誰かの話し声が重なって聞こえるとき。
こうした場面は日常にいくらでもある。
後遺症は治ったのだが、最近、疲れているのか同じような症状が軽く出る。ひどかった頃に比べれば明らかに軽いが、騒がしい場所での会話や電話に少し支障をきたしている。
おそらく内容は聞き取れている。だが、聞くこと自体に負荷がかかる。聞きたくない、ということかもしれない。
そんなとき『日本語教師、外国人に日本語を学ぶ』(小学館新書)という本を読んだ。
日本語教師である北村浩子さんが、日本語を話す外国人にインタビューした内容をまとめたものである。
その中に、イタリア人女性のこんな言葉があった。
「イタリアへ帰ると、あらゆる音が耳に入ってきて、最初はすごく疲れるんですよ。……イタリアではどこにいても、小さい声でも全部“聞こえて”くるので、脳内がお祭りみたいになっちゃうんです。」
まさにこれだ、と思った。脳内がお祭り。自分が感じていたあの疲れは、これだったのかと妙に納得した。
後遺症がひどかった頃は、音を流すときも日本語を避けていた。
音楽か、外国語のテレビやインターネットラジオ。日本語だと、聞きたくなくても耳に入ってきた言葉を自然と理解しようとしてしまう。
本来、人間には「聞く必要のない言葉は無視する」能力があるという。それが「カクテルパーティー効果」と呼ばれるもの。
だが、この能力は加齢や聴力、認知機能の変化で弱まることがあるそうだ。
自分も耳鼻科で検査を受けた際に、「日本人成人の約20%はこの能力が弱い、もしくは苦手」と言われた。
おそらく自分もその一人なのだろう。
そして、他の症状と同じように、体調や精神状態によって強くなったり弱まったりする。
興味深いのは、外国語ではこの「お祭り」が起こらないということ。耳に入ってきても、意味として処理されない。
だから疲れない。理解しようと思ったときだけ、自発的に集中すればいい(集中したからといって外国語が聞き取れるかどうかは別の話だが)。
母語と外国語では、脳の使い方も処理の仕組みもおそらく違っている。
そう考えると、日本語がまったく耳に入ってこない環境に身を置いてみるのもよさそう。
日本語の聞こえてこない外国の街角でボーッと過ごすのが、リハビリには向いている――かもしれない。