伊豆の踊子 の時代
2021/4/3
川端康成の『伊豆の踊子』を聴いた。最近増えて来たオーディオブック。帰りの通勤電車で聴いたので時々記憶が飛んでいる(眠ってしまった)かも知れないが、読んでいても文字を追うだけで頭に残らないこともあるので、あまり変わらないかと。
川端康成と言えば日本で最初のノーベル文学賞受賞作家、その代表作の一つ『伊豆の踊子』であるが今まで読んだことはなかった。
川端康成が生まれたのは1899年、『伊豆の踊子』が発表されたのは1926年。
つまり、書かれたのはちょうど100年程前。川端康成が19歳の時に伊豆を旅した実体験に基づいて書かれているらしいので、1918年(大正7年)前後の時代が書かれていることになる。
作中の伊豆旅行であるが、下田街道(現在の国道414号)を徒歩で歩き、天城トンネル(旧道:1904年開通)を通って、河津に抜け、伊豆半島南端の下田まで行く。基本は徒歩。
小説には書かれていないようだが、東京から三島までは、明治には開通していた東海道本線。さらに、現在の伊豆長岡までは、1898年(明治31年)開通の駿豆鉄道(現在の伊豆箱根鉄道駿豆線)に乗ったのだと思われる。
今は、下田までは東京から特急踊り子で乗り換えなしで3時間弱。熱海まで新幹線で行けば所要時間はもう少し短い。
車だと伊豆半島の東側(国道135号)を通って行ける。
国道135号が開通したのは1953年(昭和28年)、下田までの鉄道・伊豆急行に至っては1961年(昭和36年)の開通。
更に言えば、世界最初の大衆自動車「T型フォード」が発売されたのが1908年(明治41年)。
日本では、1923年(大正12年)の関東大震災で東京の路面電車が被害に遭い、それを機にT型フォードベースのバスが走り始めたらしい。
日本で自動車の量産が始まったのは1920年代半ば。
つまり、『伊豆の踊子』の時代には、伊豆半島南部には鉄道はもちろんのこと、バスや自動車も無く、基本は徒歩しか手段が無かった。もしかしたら籠と言うのはあったかも知れないが、そんな時代。
作中の主人公は、このように往路は天城越えの徒歩だが、帰路は下田から東京まで船。いずれにしても伊豆の南端への旅は恐らく10日~2週間程度の大旅行だった。
令和の現在では、東京から日帰りはさすがに味気ないが、1泊あれば、下田の温泉に入って十分に帰って来られる。
そんな『伊豆の踊子』の時代、ひとつだけ現在と似通っている描写があった。
主人公が下田から船に乗る時に、東京まで面倒を見てやってくれ、と託されたおばあさんの子供たちが当時大流行していた流行性感冒で亡くなり悲嘆にくれている、と言うところ。100年前のインフルエンザの大流行。
新型コロナで海外に行けない時代。
10日とは言わないが、徒歩で3~4日の旅、と言うのも面白そう。もちろんオーディオブックを聴きながら。
普段から歩く生活だった昭和初期の人々ができたからと言って、電車やバス、自動車移動が当たり前の令和の我々が徒歩旅行に耐えられるかどうかは知らないが。