弥生時代と移民政策 吉野ヶ里遺跡II

昨日(→こちら)に引き続き吉野ヶ里遺跡について。

吉野ヶ里では、紀元前4世紀頃からの約700年間の弥生時代遺跡が発見されている。この約700年の間には、中国朝鮮半島から多くの人たちが日本列島にやって来た。

当時の中国は、
紀元前5〜3世紀: 戦国時代
始皇帝が天下統一した秦の時代、前漢、後漢などを経て
3世紀: 三国時代
となっている。
三国志演義でお馴染みの劉備玄徳が鎮圧したと言う「黄巾の乱」は184年に終息した。

つまり、弥生時代の700年間は中国では、戦乱と天下統一、政権交代が続いた時代(700年間も続く政権はそんなに多くは無いと思うが)。

そんな中国に嫌気が差して国外逃亡を図った人達が日本にたくさん渡って来たのだろう。
現代の言葉で言えば、政治亡命。
今と違って“亡命先”の情報をインターネットで気軽に得らると言うことは無く、行き当たりばったりに逃亡を図るしか無かったと想像される。

以下、全て吉野ヶ里遺跡ガイドの説明に自分の想像を加えたもので学術的根拠は無いが、そんな逃亡者と戦いもせず受け入れたのが、吉野ヶ里の地に住んでいた人々。
当時の日本には無かった優秀な技術・知識を持っていた新規入植者は、土着の人々から尊敬・畏怖され、世の中(当時の集落)を支配することになった。長い間には、当然反乱や内戦などもあっただろうが、結果的には吉野ヶ里地区の生産性(主に農業や農機具など)を高め、人口も増えて行った。

主宰殿

主宰殿と呼ばれる今で言うと国会議事堂にあたる建物は、柱の遺跡から正確に東西南北に向いていたことがわかっている。当時の高い天文学・土木建築技術も窺い知ることができる。恐らく、全て中国や朝鮮から渡来した入植者が持ち込んだ技術だろう。

外からの入植者が増えると当然、言語も持ち込まれる。
漢字が日本に持ち込まれたのは、紀元1世紀頃だろうと言われている。吉野ヶ里にも持ち込まれただろう。

吉野ヶ里が栄えた時代から約2000年後の現代。
近隣諸国には政治的な理由で亡命をせざるを得ない、または、希望する人々が沢山いる。
つい最近も香港で民主派の元議員が50人以上逮捕された、と言うニュースがあった。

日本にも欠点は色々あるが、少なくとも今の時代は政治的に迫害されることは無い(と思う)。

誰でも彼でも受け入れれば良いと言う訳では無いだろうが、外の空気や優秀な技術・文化を取り入れるのは、様々な理由で外国からやってくる人たちを受け入れるところから始まるような気がする。

バブル期以降の日本は停滞している。
諸外国に対する一部の国民の意識はバブル期(1990年頃)と全く変わっていないようにも思える。30年以上前の世界観。
日本人は優秀で外国人は劣っている、と言う古い価値観の元、今だに外国人の受け入れに否定的な感情のある日本社会。

古き良きアメリカでは、例えばナチスの迫害を受けたユダヤ人が渡って来た。当人や子孫が優秀な業績を残し、アメリカの発展に少なからず貢献している。その後も世界中の優秀な人材を受け入れて来た多様性がアメリカ発展の源になっている。

吉野ヶ里に限らず、日本は歴史的に外の技術や文化には寛容だったと思われる。それらを日本風にアレンジしたり、改良したりするのが得意だった。もちろん、歴史を振り返るから言えることであって、それらが入って来た時点の当事者にとっては、余所者が来た、と言う負の感情が多かったのかも知れない。

吉野ヶ里が栄えた弥生時代と現代日本、本質的には日本の進む方向は変わっていないような気もする。

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