BLACK LIVES MATTER
アメリカ・ミネアポリスでの白人警官によるジョージ・フロイトさんの暴行死事件以降、アメリカを中心に各地で人種差別反対デモが発生していることは何回か記事に書いた。日本でも6月14日に東京・渋谷でBlack Lives Matterを訴えるデモが行われた。
幼稚園の頃、京都の街におそらく観光で来ていただろうアフリカ系の人がいて、少し怖い印象を持った記憶がある。当時は、まだ外国人観光客も少なく、日本人(または東アジア系)以外の人を見る機会は無かった。
幼稚園生の自分や周りの人達に比べて背が高く大きい異国人、と言うのが恐怖を覚えた第一の理由だと思う。コーケジアン(白人)だったとしても怖かったに違いない。
もう一つは、普段見慣れていないと言うこともある。つまり、自分や自分の周りとは“違う”から。
今の日本では、アフリカ系の人を見かけることはあるにはあるが、それほど多くは無い。個人的な思い込みかも知れないが、“Black Lives Matter”デモを日本で行うことに対しては実感が湧かない。もちろん、差別を受けていると言う意識を持たれている当事者の方々にとっては失礼な見方だとは思う。
もちろん日本には差別が無い、と言っているわけでは無く、アメリカや欧州など様々な人種が暮らしているより国々よりも日本の差別意識は大きいのでは、と考えている。
在日韓国・朝鮮人や中国人など、所謂“外人”。個人的には、”ハーフ“と言う言葉も時と場合によっては差別用語かもと思っている。そして、LGBTQと言われる性的マイノリティ。大多数の日本人は自分たちは、大和民族(定義は詳しく知らないが)と何となく思っている。
さらには、何か他人と違った事をした・している人。他人と違って優秀な実績・功績をあげている“出る杭”。
みんな差別の対象。
最近はあまり聞かれなくなったが、日本は長らく“一億総中流”時代が続いた。日本の人口が1億人を突破した高度経済成長時代末期、1970年代から日本人が持ち始めた意識らしい。“中流”から外れている人を差別する・されると言う潜在的な意識もあったかも知れない。
最近は日本人の所得格差も広がり、中流で無ければ差別される、と言う事は(恐らく)無くなった。それでも、少し違うとバッシングを受ける。または、誰かがある対象者を”差別”すると、関係の無い他人までもがその人をバッシングする。立派な差別。
先日の「SNS 日本人の同調行動(→こちら)」に書いたように、悲しい事件になってしまうこともある。
差別と言う言葉が使われない、差別していると言う意識が無い分、根が深いかも知れない。
アメリカと言う太平洋の対岸で起きた事件に端を発したBLMの動き。日本でも”BLACK”だけで無く、差別問題に対する意識は持つようにすべきだと思う。