昭和初期 – 子供の世界

2019/2/23

先日の法事は伯母の三回忌。その伯母が子供の頃を回想して書いた手記を読ませてもらった。

その一部を紹介する。
昭和10年(1935)頃の風景。
戦争前で平和な頃だったと思われる。

子供たちが生き生きとしているのは平和の証し。


四条通りから一筋南に入った家の近所は、その頃店が多く、湯のし屋、米屋、豆腐屋、紙屋、八百屋、魚屋、小間物屋、酒醤油屋、電気屋、菓子屋等々があった。それ等の店は表戸が常に開かれていたし、近所の家々への行き来は、子供や大人を問わず気楽であった。
家の前の道路は、子供の遊び場でもあった。家でじゃまにされると外に出た。そこには子供達がいたし、下駄かくし、縄跳び、かくれんぼ、ドッチボール、と遊ぶことに不自由はなかった。
特に夏の夕べは、行水をそそくさとすませて、家々の前に床机を持ち出し、電燈のコードを軒に引っぱり出して明るくして、そこでは子供達同士が、大人と子供が、将棋や将棋倒し、五丁並べ等々の遊びがあった。どれも勝抜戦であり、子供心に負けじとがんばった。

お盆近くになると、子供の名前の書いた提燈を家々から集めて来て五ケづづ程竹竿に通し、両端は子供が持った三組程と、一人は拍子木を、一人は鐘をならして、ヨイサッサヨイサッサ これから八丁十八丁・・・と歌いながら宵の街を提燈の隊がねり歩いた。
父は、これ等の世話を楽しみにしていたようで、出発は私の家であった。

小学校当時も屋外でよく遊んだ。行動範囲は少し広くなった。お宮の境内で夕方まで遊び、日暮れせまる頃急いで帰宅しては、もっと早く帰って来いとよく叱られた。或る時は、西京極あたりまで歩いて行った。行きはヨイヨイ、帰りは遊び疲れた体を引きづって、空腹と家までの遠さにまだかまだかと歩いて帰った。

お正月は、お向いのお針の師匠さんの家で大人や大きなお姉さんお兄さんに混って、小倉百人一首のカルタ取りが楽しみであった。上の句で下の句を取ることのスリル、一枚取れた気分は格別であった。

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